半過(はんが)

太古の昔、小県郡(ちいさがたぐん)から南佐久郡へかけて、大海でした。そのころは、塩尻の岩鼻(いわばな)と半過の岩鼻とは、今のように切れていないで、つながっていました。ですから、ここから南は大海で、北のほうは陸地で田畑がひらけていました。

ところが、ここに一匹の劫(こう)を経た大鼡(おおねずみ)がすんでいてたくさんの子鼡(こねずみ)をひきつれ、田畑を荒らすので、百姓達の苦労も水泡に帰して、毎年収穫がなく、人々はたいへん悩んでいました。
そこで、村の人々は、一所に集まって、どうかして鼡の害を免れたいということを相談しました。一人の古老が、「普通の猫が何百匹かかったからとて、あの劫を経た大鼡にはとうていかなうまい。だから、あの大鼡よりも、もっともっと大きな猫を連れて来て防ぐよりほかに、よい方法がない。」と、言いました。
すると大勢のなかなので、たちまち大きな唐猫(からねこ)を見つけて来ました。そして鼡の群れにけしかけました。さすがの大鼡もこれには堪えかねて逃げだしました。唐猫はどこまでも追っかけていきました。大鼡はとうとう大海の端の岩山にまで走ったが進退きわまって、死物(しにもの)ぐるいに一心に岩山を噛み切って隠れようとしました。
大海を支えていた岩山が噛み切られたので、今までまんまんと水を湛(たた)えていたのが一時に迸(ほとばし)りでて、大鼡も子鼡もみな流され溺れ死んでしまいました。唐猫も流されたが篠の井付近で辛(かろ)うじて上がったが、間もなく死んでしまいました。
この時、小県と佐久の平ができ、岩の噛み切られたのが残って、今でも岩鼻と呼ばれています。岩鼻の北にある鼡宿(ねずみじゅく)の名は、鼡にちなんでつけられた名で、篠の井付近の唐猫が上がった地には、唐猫を祀(まつ)った唐猫神社があります。


岩鼻の近くの塩尻村は、大昔、大海の最も北の端にあったので、「潮尻(しおじり)」の意味から転じて村名になったといわれ、千曲川上流の南佐久郡には、大海の南の端であったので、海の口、海尻、海瀬などの地名が残ったと伝えられています。


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